プツンと糸が切れたように不登校に
私が不登校になったのは、中学1年生の後半ぐらいからでした。
小学生のころはサッカークラブに所属するなど、スポーツ好きだった私はソフトテニス部で活動していたのですが、人間関係に悩まされるようになったのです。
通っていた中学校では、クラスの中でも同じ部活の子同士が固まっていて、私は同じソフトテニス部のクラスメイトから嫌がらせを受けるようになりました。
「明子って嘘つきだよね」
「私、明子のこと嫌いだな」
嘘をついたつもりもなく、嫌われるようなことをした記憶もないのに、そうした悪口を面と向かって言われ、悪口を書いた手紙を渡されました。
彼女が言うには「私はあなたのことが嫌いだから、あなたも私のことが嫌いに決まってる」のだそうで、「私のこと嫌いなんでしょ?」と後ろからささやかれ続けたりもしました。思わず泣いてしまうと、「私がいじめてると思われるから泣きやんで」と責められ、どうしていいかわかりませんでした。
部活のときは楽しく活動できたので、どうにかやり過ごしていたのですが、嫌がらせは長く続き、だんだんと「学校に行きたくない」という気持ちが強まってきたのです。行ったり行かなかったりする日々が続き、あるとき、プツンと糸が切れたように、完全に学校に行けなくなりました。
最初の数日は何も食べず、ひたすら部屋で寝ていました。そのころの記憶があまりないので、ぼーっとしていたのだと思います。とにかくひとりになりたくて、家族とも口もきかずに引きこもっていました。
進学した高校も1年で中退
両親やきょうだいが心配しているのはわかっていましたが、しばらくは顔も合わせないようにしていました。会うのが嫌だったのではなく、ただ、ひとりになりたかったのです。
誰もいないタイミングを見計らって台所に食べ物を取りに行くような生活から始まり、少しずつ、家の中では普通に過ごせるようになりました。
中学3年生になり、元気を取り戻すにつれ、勉強の遅れや高校受験のことが心配になってきました。
そして、焦り始めた私を母が「学校に行ってみようか」「途中で帰ってもいいから」と、毎日学校に連れて行ってくれたのです。
保健室登校のようなかたちでぽつぽつと学校に顔を出せるようになった私は、なんとか中学を卒業し、成績と出席日数を照らし合わせて入学可能な高校に進学しました。
しかし、その高校は雰囲気が悪く、人間関係もドロドロとしていて、とても落ち着いて勉強ができるような場所ではなかったのです。夏休みを機に再び不登校となり、結局1年生の終わりに中退してしまいました。
高校を辞め、もう自分には道はないと思い、この先の人生をどう進んでいいのかがわからなくなりました。
みんなが進むレールから外れてしまったことに怯えながら、高校卒業の資格を取るために塾に通ってみたり、レストランでアルバイトをしてみたりと、手探りの日々を過ごしましたが、進むべき道が開けることはなかったのです。
母が寄り添ってくれた日々
うまく「復活」できない私に寄り添ってくれたのは、母でした。
先が見えない日々のなか、元気をもらっていたAKB48やHKT48などのアイドルグループのことを母はいつの間にか調べ、イベントに私を誘い、同行してくれるようになったのです。
華やかな舞台の上で、真剣勝負とばかりに歌って踊るアイドルを見ていると、だんだんと気持ちが前向きになり、笑顔になれました。一緒になってイベントを楽しみ、他のファンの方とも進んで交流する母は、とても心強い存在でした。
メンバー一人ひとりの顔と名前を一生懸命に覚え、コンサートでは私よりもはしゃぎながら応援していた母。会場に行くたびに会うファンの方たちに「お母さん」と呼ばれるほど打ち解けていたその原点は、私を元気にしよう、同じ時間を共有しようという思いだったのだと思います。
あるときなど、「東京に行ってみたい」と言い出した私を連れて、本当に東京に行ってくれたこともあります。交通費もかかるし難しいだろうと思っていたのに、母はスムーズに予定を組み、すぐに東京行きが実現してしまったのです。
ちょうどそのころ、ハッピー・サイエンス・ユニバーシティ(HSU)※の建設予定地の見学会も開催されていたため、母と千葉県にある広大な敷地を歩くことになりました。
まだ何もない、土がむき出しのままの地面。ここにいくつもの建物が立ち、たくさんの学生が集うのだと思うと、不思議な感慨がありました。
私が生まれる前に信者になっていた両親のもとで、幼いころから幸福の科学の教えに触れてはいたものの、そのときはHSUと自分とを素直に結びつけて考えることはできませんでした。幸福の科学では、努力や勤勉さがとても大切にされています。学校にも行かず、ずっと引きこもっていた自分には、とても手の届かない場所だと思っていたのです。
そんな私に転機が訪れたのは、その後、開学したHSUの学園祭に行ったときのことでした。縁あってHSU祭を手伝うことになった母に連れられて、初めて足を踏み入れたHSUは何もかもが真新しく、私は興味津々で学内を見て回りました。
そして、ある模擬店に入ったときのこと。接客をしてくれた学生の方が、とても感じよくお話をしてくださいました。そのやさしさと、人を惹きつける魅力に驚くとともに、HSUに対する憧れが湧いてきたのです。
「私もここで学びたい……!」
HSUに合格! わずか2週間で迎えた入学式
自宅に戻り、HSUについて調べると、タイミングよく数日後に説明会が開催され、試験が受けられることがわかりました。
面接をしていただき、すぐに試験を受けることになりました。
おかしな話ですが、「試験を受けられますよ」と聞いた瞬間、私は「自分は必ずHSUに行ける」と確信してしまったのです。いつの間にか、自分の居場所はそこだと思い定めていたのかもしれません。
そして結果は合格。「学びたい!」という思いで塾に通ったり、自宅で勉強したりしてはいたものの、私が合格したことに、両親もたいへん驚き、そして喜んでくれました。
合格通知をいただいたのは、入学式の2週間前。本当に、さまざまなタイミングが重なり、運命が回りに回った日々だったと思います。翌週には実家を離れて千葉県にある寮に住み始めた私は、「もう一度スタートが切れる」といううれしさでいっぱいでした。
しかし、いざ新生活が始まると、途端に怖気づいてしまいました。女子のグループを見ると、中学生のころを思い出して恐怖心が湧いてくるのです。同世代の学生たちに囲まれると、クラスで孤立していたころを思い出し、自分以外の人が仲の良い集団に見えて不安でたまらなくなりました。
皆がいる場所に行くことができず、寮の部屋に引きこもり、毎晩泣きながら母に電話をしました。5日間の入学前のオリエンテーションには、結局最終日の1時間だけしか参加できなかったのです。
そんな私に、HSUの人たちはとても温かく接してくれました。オリエンテーションに参加したときに出会った先輩がとてもやさしく接してくださり、歓迎会では同級生が声を掛けてくれ、その後、「そのままのあなたでいいと思うよ」と書かれた手紙を渡してくれたのです。
食事のときは寮のブロック長が食堂で一緒に食べてくれました。同郷の先輩や同級生たちも声をかけてくれ、友人の輪が広がるにつれて、不安と恐怖でいっぱいだった心が少しずつほぐれていきました。
そして、いよいよ授業が始まりました。まだ行きたくない気持ちはありましたが、「ここで行かなきゃ、行けなくなる」と思い、毎朝行われている「朝作務」には必ず参加することに決めたのです。毎朝、作務に取り組んでいるうちに学内の雰囲気にも慣れ、友達も増えていきました。
授業についていけるか不安でしたが、「基礎教学」や「創立者の精神を学ぶ」などの授業はどれもわかりやすく、内容も興味深かったため、久しぶりに「勉強って楽しい!」という実感を得ることができました。専門科目である経営系の授業は難しく感じることもありましたが、熱心に教えてくれる先生方のおかげで、「頑張ってついていこう」と思えたのです。
将来は芸能関係の仕事で人を笑顔にしたい
5月の連休に実家に帰ると、母がうれしそうに「しっかりした顔になったね」と言ってくれました。入学からわずか1カ月なのに、HSUは私を大きく変えてくれたのです。
HSUでは、専門性の高い実学はもちろんですが、幸福の科学の教えについてもたくさん学んでいます。実家で引きこもっていたときよりも積極的に、HSU創立者でもある大川隆法総裁の書籍を読むようになりましたし、そうした「教学」(教えを学ぶこと)をしていると、両親の言葉を思い出すことがよくあります。
「勉強の遅れはいつでも取り戻すことができる。まずは元気になろうね」
「元気でご飯を食べてくれたら、もうそれでいいよ」
「学校に行けないからって、ダメなわけじゃない。明子は絶対に大丈夫」
「あなたも仏の子だから。仏は必ず見ているからね」
「人はどこからでもスタートできるんだよ」
両親が折にふれてかけてくれた、こんなメッセージの本当の意味がわかるようになったのは、HSUで学び始めてからです。
人は誰しも仏の子であり、仏と同じ性質をその身に宿しています。だから人は皆そのままで尊いのであり、この「仏とつながっている」という自覚が本当の自己信頼になる。その自己信頼さえあれば、人はどこからでも人生を再スタートできるし、「絶対に大丈夫」なのです。
不登校のときも引きこもりのときも、両親がかけてくれた言葉のもとには大川隆法総裁の教えがあり、それが私の「芯」になっています。今、そのことをとても感謝しています。
将来の夢もできました。私がアイドルから元気をもらったように、将来は芸能関係の仕事に就いて、アイドルなどを通じて人を笑顔にするお手伝いがしたいと思っています。
幸福の科学にも芸能事務所がありますし、今後は大川総裁の教えを学ぶタレントの方もどんどん増えていくと思います。世界に夢や希望を与える芸能という仕事に、どんなかたちであれ関わることができるように、経営成功学部での勉強に励んでいきます。
先輩や友人、先生方は本当に素晴らしい人たちばかりです。過去の経験を思えば、今この場所で学んでいるのは奇跡のように感じます。大好きなHSUと、支えてくれた両親や家族をはじめ、すべての方々への感謝とともに、私は今、成長できる喜びを全身全霊で感じています。
ある朝突然の「行かない」
「どうして起きないの?遅刻するよ。お腹でも痛いの?」
ある朝のこと。中学1年生の末の娘・明子が、いつになっても部屋から起きてきません。体調でも崩したのかと心配しながら、何度目かの声をかけに行ったときです。
「行かない」
部屋の中から返ってきたのは、その一言だけ。それきり、明子は押し黙ってしまいました。声がくぐもっていたので、頭から布団をかぶっているのだと分かりました。
嫌な予感が胸をよぎり、震えるような不安が押し寄せてきました。そしてその日も、その翌日も、明子は食事もとらず部屋にこもり続けたのです。
ひどく動揺した私は、「娘は大丈夫だろうか」「勉強が遅れてしまう」とただただ焦り、当時の心境はパニックに近かったと思います。そして「どうしたの」と聞くたびに、娘はますます心を閉ざしていきました。
学校やカウンセリングに通っても埒が明かない
学校に通い、担任の先生と何度も話をしました。しかし先生が口にするのは、当たり障りのないことばかりです。
「先生、クラスで何かあったんでしょうか?」
「いやぁ、教室では特に何もない様子ですが……」
(そんなのおかしい。先生なら、子供たちの様子から何か感じるはずだ)
私は結婚前に保母をしていた経験があります。毎日子供たちを見ていて「何も分からない」ということはありえないと感覚的に分かっていましたし、娘ははっきりとは語りませんでしたが、友人関係でトラブルがあったことは、十分に察せられました。
核心に迫ることはないまま、学校からは「ここに行ってみてください」と、市が運営する不登校のカウンセリングを紹介されました。そのカウンセラーの方のところにも、何度も足を運びましたが、ただ話を聞いてくれるだけで、解決に向けた話は一向に進みません。
正直なところ、学校は「不登校カウンセリングを紹介しました」、カウンセラーは「話を聞きました」という、形式だけの対応をされているような気がしてなりませんでした。
(学校もカウンセリングも頼りにならない。私にできることは何だろう)
解決の糸口を見つけるために、私が手に取ったのは書籍でした。「不登校」「いじめ」に関係する本を読み漁る日々が続きました。
誰もが持つ「仏性」を信じて
特に心の支えになったのは、信仰している幸福の科学の書籍でした。
人間は、仏の子、神の子としての生命が宿っているから尊いのです。仏の子、神の子としての生命は、磨けば燦然たる光を放つからこそ、尊いのです。それが人間の尊さです。(
『生命の法』より)
(そうだ、明子も尊い仏の子だ)
大川隆法総裁の書籍を読むたびに、不安や恐怖でいっぱいだった心が落ち着いていきました。そして、娘と向き合う勇気が湧いてきたのです。
まずは「どうしたの」とは聞かず、学校のことを話に出すのもやめました。「元気でご飯を食べてくれたら、それでいい」と開き直ったのです。すると少しずつ、娘が心の緊張を緩めるのが伝わってきました。会話が増え、以前のように娘との距離が縮まったのです。
(私の思いが明子にも伝わるんだ)
幸福の科学の教えのもと、娘を信じ、寄り添い、支え続ければいつか絶対に立ち直れる。私はそう確信しました。実際に、大川隆法総裁の教えに基づいた「信仰教育」と「学業修行」を行う不登校児支援スクール「ネバー・マインド」は、96%以上という驚異の再登校率を誇ります。書籍『大丈夫、不登校は解決できる。』に紹介されているネバー・マインドのメソッドは論理的で、不登校解決の確信に満ちています。
人間は誰しも仏の子であり、仏と同じ性質である「仏性」」をその身に宿しています。だからこそ、たとえ不登校や人生のつまづきがあっても、子供は自分自身の、保護者や周りの人はその子の本来の力を信じ続けられ、どこからでも再スタートが切れるのです。
一緒にアイドルのコンサートへ
早く元気を取り戻せるように、私は明子が好きなものを一緒に楽しむことにしました。
娘はAKB48やHKT48などのアイドルグループが大好き。私から見ると、最初はどの子も同じに見えて戸惑いましたが、共通の話題を持ちたい一心で顔と名前を覚え、コンサートやイベントに誘ったのです。娘は喜んで一緒に行ってくれました。
コンサートでハキハキと歌って踊る彼女たちを見て、明子はどんどん笑顔になっていきます。歌やダンスを一生懸命に練習し、皆に勇気や希望を与えるアイドルたち。
その魅力や頑張りに触れ、彼女たちに惹かれる娘の気持ちがよく分かりました。そして、その存在を通して娘を元気にしてくれることに、感謝の思いが湧いてきたのです。
「HKT48のダンスはすごいね。皆、頑張って練習してるんだよね」
「お母さんもそう思う?私はね……」
アイドルの話になると、会話もますます弾みます。一緒にコンサートや買い物に出かけるたびに、明子は少しずつ元気を取り戻していきました。
それでも中学校への完全復帰は難しく、保健室登校のようなかたちで登校し、卒業。しかし間に合わせのように入った高校にはなじめずに中退することになりました。
その後も、高卒の資格を取ろうと塾に通ったり、飲食店でのアルバイトを始めたりと、娘は手探りで前に進もうとしていました。
真面目でがんばり屋の娘です。本当は、安心して通える学校で、思う存分勉強や部活に励みたかったことでしょう。そんな思いがよぎるたびに、「明子は絶対に大丈夫」と信じながら、娘の未来が開けることを祈りました。
娘の背中に感じた幼いころからの信仰心
ちょうどそのころ、幸福の科学では、ハッピー・サイエンス・ユニバーシティ(HSU)建設の話が盛り上がっていました。年齢的に、もしかしたら娘もいつかはそこに通えるかもしれないと、ほのかな憧れを感じていたのです。
時を同じくして、明子が「東京に行ってみたい」と言い出しました。そこで、東京観光の一環で、HSUの建設予定地を見学できるツアーに参加することにしたのです。
千葉県にある広大な敷地で海風を感じながら、やがてここに集うであろう、まだ見ぬ青年たちを思います。その中に娘の姿があるような気がして、私は、うつむき気味に前を行く明子の背中を目に焼きつけました。
私が幸福の科学の教えに出合ったのは、明子がお腹にいたときのことです。
主人の兄に誘われて上の子ふたりを連れ、大きいお腹を抱えて、東京ドームで行われた大川隆法総裁の講演会に参加しました。会場の方々の目がキラキラと輝いていたこと、そして上の子がジュースをこぼしてしまったときに、見ず知らずの人たちが「大丈夫ですか?」と、ティッシュペーパーなどを取り出して当たり前のように拭いてくれたことが強く印象に残っています。
私はお寺の子として生まれ、キリスト教系の短大に通ったので、仏教にもキリスト教にも、いい教えがあると知っていました。でも、お酒やタバコ、夜遊びが当たり前のお坊さんたちや、嫉妬やいじめが渦巻くシスターの実態を見るにつけ、「教え自体はいいのに、なぜ?」と感じていました。そして、どの宗教も他の教えを認めず排斥し合うことも、疑問に思い続けていたのです。
幸福の科学の教えは、他の宗教をいたずらに否定せず、もっと大きな概念で包み込むものでした。時代や民族の違いなどで、いろいろな宗派に分かれているけれど、頂にいる根本の神様はひとつ。そして正しい信仰はすべてその神様を目指していると分かり、本当にうれしく思ったものです。
東京ドームでの大講演会の後、生まれてきた明子は、幼稚園くらいから毎晩のお祈りの時間に、家族の先頭に立って「真理の言葉・正心法語」(※)などの経文を読み上げるようになりました。幼いながらに導師をしたがるのです。家族に先立って合掌・拝礼をし、熱心に経文を読む小さな背中に感じた、信仰心の篤さ——その後ろ姿が、HSUの敷地を歩く娘の背中に重なって見えました。
その後、開学したHSUの学園祭に行ったことをきっかけに、娘もHSUへの気持ちを確かなものにしたようです。自宅に戻ると、ありがたいことに受験の機会をいただき、少しずつ頑張っていた勉強の成果か、無事に合格通知をもらうことができました。
- ※「真理の言葉・正心法語」
- 幸福の科学の根本経典である『仏説・正心法語』に収録されている経文の一つ。この経典には合計七つの経文が収録されており、毎日読むことで、天上界と同通し、悪霊を遠ざけ、人生を切り拓く力がある。
いじめの真相
不登校になったころ、明子は一度もつらさを訴えたり、こういうことがあったなどと話したことはありませんでした。
後になって分かったことですが、同じ部活の子からずっと、「嫌い」「嘘つき」などと、いわれのない悪口を言われ、嫌がらせを受けていたそうです。
仲良くしていた友達との縁をことごとく切られ、孤立してどうしようもなくなり、部活の先輩に相談したところ、いじめた側の子たちは、「明子が私たちの悪口を先輩に吹き込んだ」と先生に訴えたのです。
すると、娘といじめっ子の二人は呼び出され、明子は何も聞かれないまま先生に「謝りなさい」と言われたそうです。弁解もさせてもらえず“仲直りの握手”を強いられ、それがどうしても腑に落ちなかったと……。
「先生は穏便に済ませたかったんだと思う。いじめてきたのは学年の中心的な子たちだったから、どっちの言い分を聞いたほうがうまく収まるかは、先生も分かっていたはず。お母さんに言ったら学校に飛んで行くだろうから、もう黙っていようと思った」
娘が涙ながらにこう語ったのは、中学校を卒業した後のことでした。中1の幼い心で受け止めるにはつらすぎる出来事です。それを母親である私の性格を考えて何も言わず、ひとりで抱え込んでいたのです。私はただ、「ごめんね」と謝ることしかできませんでした。
友達にも学校にも失望し、心に大きな傷を追ってしまった明子。それでも決してあきらめることなく、HSUという新しい環境で再び伸びていこうとする姿に、改めて、魂の輝きを実感せずにはいられませんでした。
人生にはいつだって別の扉がある
HSUの入学式から1カ月あまりが経ったころ、5月の連休を利用して、明子が自宅に帰ってきました。待ちに待った入学でしたが、いざ寮に入り、同世代の女子に囲まれると昔を思い出すのか、恐怖で入学前のオリエンテーションにはほとんど参加できなかったのです。
毎日泣きながら電話をしてきたのでずいぶん心配しましたが、授業はおもしろく、友達もできたそうで、表情は見違えるように明るく、わずかな間でしっかりした顔つきに変わっていて驚きました。
(HSUが、この子の本当の輝きを開花させてくれたんだ……)
不登校になったときは、どうしていいか分からず、ただ不安でいっぱいでした。思い返せば、上のきょうだいが偏差値が高い高校や大学に進学していたので、私は明子もそうなると漠然と思っていたのです。だからあんなに動揺したのだと、今なら分かります。
でも、人生にはいつだって別の扉が用意されていますし、偏差値のいい大学に行くことや、有名企業に就職することだけが人生の成功ではありません。娘の不登校や引きこもりという経験は、母である私の価値観を広げてくれ、何よりも「仏性を信じる」ことの大切さを教えてくれました。
人間が本当に他者を信じ、自分自身を信じるには、仏性という、魂そのものが持つ本来の輝きを知る必要があります。娘にも自分自身の仏性を愛してほしいと、心から願っています。
HSUの学生さんたちは、私の目から見ても本当に立派です。社会に役立つ人材にならんとする気概を持ち、そのための努力を怠りません。世間で“いい大学”といわれる学び舎と比較しても、勝るとも劣らない、素晴らしい環境です。
不登校や引きこもりは結果的に、明子をHSUに通わせてくれました。距離は少し離れていますが、娘の成長を見守ることができることへの感謝とともに、私自身も、「人生のすべてに学びがある」という気づきを忘れず、親として成長を続けていきます。
(※プライバシー保護のため、文中の名前は全て仮名にしています。)
月刊「アー・ユー・ハッピー?」2017年11月号・12月号より転載・編集