転校先でのトラブル

転校先でのトラブル

中学2年生の時でした。

「美菜、またお父さん転勤だって」

「えっー、またぁ?」

母の言葉に、私はショックを受けました。

(せっかく、今の学校に馴染めたのに、また転校?なんでいつもお父さんの都合に合わせなくちゃいけないの!)

私の父は“転勤族”で、中学だけでも2度目の転校でした。しかも、今度は東京から遠く離れた、地方の学校……。

泣く泣く転校して間もなくのこと。

「ちょっと、トイレに来てよ」

クラスメートに言われて、トイレに行くと、何人かの女子が集まっていました。

「あんたのその態度、ムカつくんだけど」

「なにその茶髪? スカートも短くして何様のつもりよ」

転校したばかりで、制服も東京の学校のままでした。東京ではふつうの格好なので、びっくりしました。このことがきっかけで、私はいじめられるようになったのです。

不登校

(あれ?誰からだろう)

ある日、机の中に手紙が入っていました。

「みんなから、いろいろ言われているみたいだけど、大丈夫? 学校のことで分からないことがあったら、私に聞いてね。吉田由実」

(吉田さん?あぁ、あの子か)

話したことはありませんでしたが、明るい世話好きそうな子でした。

(嬉しいけど…これって同情?なんかみじめだな)

その後も手紙が続き、彼女から話しかけてくるようになりました。

「上山さん、一緒に帰らない?」

「別にいいけど」

誘われれば一緒に帰りましたが、私の態度は消極的でした。つい意地を張り、吉田さんに対しても素直に心が開けなかったのです。

そのうち、吉田さんもあまり話しかけてこなくなり、私はクラスのなかで孤立した存在になっていました。

ある朝、急にお腹が痛くなりました。

病院に行き、数日学校を休んだら痛みは取れましたが、それから朝起きるのがかったるくなり、どうしても起き上がれません。 私は不登校になってしまったのです。

学校に行かなくなって数週間が過ぎ、母は、先生や教育委員会に相談して、他の中学に移る手続きをしてくれました。

(この学校さえ移ればなんとかなる……)

もともと学校が嫌いなわけではありません。 私は、次の学校では服装や髪型に気をつけ、クラスに早く馴染めるように、できるだけ“いい子”を演じようと努力しました。

しかし、同級生との距離はいっこうに縮まりませんでした。まじめな態度がかえってわざとらしく見えたのかもしれません。

「上山、カバンの中、見せてみろ」

ある日、先生が私に言ってきました。カバンを開くとタバコが入っていて、びっくりしました。誰かの嫌がらせでした。

私が必死に説明すると、先生も変だと思ったのか、いたずらだと分かってくれました。でも、陰険ないじめにショックを受けました。

(もう、嫌だ。学校なんて行きたくない)

私は再び不登校へと逆戻りしてしまいました。

私の青春、返してよ!

「美菜、ちゃんと話し合おうよ」

「話したくない、放っておいて」

母に話しかけられても、ふとんを頭から被って動こうとしない私。

そのうち、父が怒りはじめました。

「いい加減にしろ! いつまで学校に行かないつもりなんだ!」

父はお酒を飲んでいるようでした。昔から、父はお酒を飲むと人が変わったように怒りっぽくなります。大きな声で怒鳴られて、私もキレました。

「何よ! お父さんが転勤したからいけないんじゃない。私の青春、返してよ!」

取っ組み合いの喧嘩になりました。私のあまりの荒れように、父は途中で匙を投げたようです。 それからは私に何も言わなくなりました。私のことは母に任せたようでした。

(私のことなんて、どうだっていいんだ)

国立大学を出て、大きな会社に勤めている父── できの悪い私を厄介者に思っているような気がしました。

東京に戻りたい……

東京に戻りたい……

私は虚しさに襲われ、リストカットをするようになりました。

家の近くの崖に何度も行ったりしました。

でも、その場に行くと、もう一歩が踏み出せませんでした。以前、母から聞いていた話が心にひっかかっていたからです。

「『死んだら楽になる』って自殺する人が多いけれど、天国に還れないで不成仏霊になって苦しむんだって」

母は幸福の科学の信者でした。私も、小学生の頃から、母に仏法真理の話を聞いていました。

(死んだ後まで苦しみたくない)

恐くなって、思い止まりました。

そして、ある日、母に自分の正直な気持ちを打ち明けてみました。

「私、東京の学校に戻りたいよ」

結局、私は一人で東京にアパートを借り、転校前の中学に戻ることになりました。 そこでは以前からの友だちも多く、何事もなかったかのように、ふつうに通学できるようになったのです。

高校は寮のある学校を受験。 受験までの間、母が自宅と東京の間を行き来して、私の面倒をみてくれました。

ある日、母が幸福の科学の総本山・未来館(※)に連れていってくれました。

(明るくてきれいだな……)

ギリシャ的な雰囲気がとても好きになりました。私はこのとき、母に勧められて三帰誓願さんきせいがんしました。

※総本山・未来館みらいかん
栃木県宇都宮市にある幸福の科学の精舎しょうじゃ(研修・礼拝施設)
三帰誓願さんきせいがん
ぶっぽうそうの「三宝さんぽう」に帰依きえして、修行を続けることを誓うこと。

非行

私は高校に合格しました。 中学時代は転校で苦しんだ分、高校では楽しもうと思っていました。でも、寮での一人暮らしは、思っていた以上にさみしいものでした。 自分の部屋に一人っきりでいると、不安になります。

「ねぇ、これから部屋に行ってもいい?」

「いいけど──美菜、よく来るよね」

さみしさを紛らわすために、私は同じ寮の友達の部屋に入り浸っていました。

(お母さんはよく訪ねてくれるけど、お父さんは連絡もくれない)

不登校で荒れて以来、私と接しようとしない父──。 父が私を“お荷物”のように思って避けているんだと感じました。

毎日、あちこちに電話やメールばかりしていましたが、そのうち、それだけではもの足りなくなった私は、携帯サイトで出会った人たちと遊ぶようになりました。

当時流行していたコギャルのファッションで、夜の街を遊び歩く。 さまざまな非行をするようになっていきました。

でも、何をしていても、心はいつも虚しかったのです。

母は、私の様子がおかしいことを、薄々勘付いていたのかもしれません。夏休みに帰省した際、母に日記と携帯電話を見られ、私の非行がばれることになりました。

「美菜、これはどういうことなの!」

「勝手に見るなんてひどいじゃない!」

私は開き直って、母に反抗しました。 父にも知られて、おもいっきり殴られました。

ぜんぜん反省の素振りもない私に、両親はついに警察に相談することにしたらしく、警察署に連れていかれて説教された私は、ふてくされて部屋にこもり、両親と口を利かなくなりました。 そんな私の心を開こうと、母は必死になって話しかけてきました。

「美菜、勝手に日記を読んでごめんね。お母さん、あなたのこと信じているから」

そういって、母は鍵付きの新しい日記を私に手渡してくれました。日記を無断で見られたのは頭にきましたが、母は本気で心配してくれてるんだと感じ、少しうれしかったです。

もう一度やり直したい

夏休みが終わり、東京に戻ると、母から幸福の科学の本が送られてきました。

(『愛の原点』?どんな内容だろう……)

タイトルの「愛」という言葉が気になって本を開きました。

「愛とは、自分のためではなく、他のものに尽くしたいという思いです」(大川隆法著『愛の原点』より)

私は本に引きこまれていきました。

母から送られてくるの書籍を真剣に読むようになりました。

(自分もこのままじゃいけない)

そんなある日、母が幸福の科学の総本山・正心館しょうしんかん(※)に連れていってくれました。

「お母さん、何か研修受けるの?」

「今日は美菜と一緒に『特別灌頂とくべつかんじょう』を受けようと思うの」

母の話によれば、それは仏への信仰のもと、過去の心の重荷をおろし、新しい人生への出発を誓う儀式だといいます。

「美菜、これまでつらい思いをさせてごめんね。もう一度、お母さんと一緒に、真っ白な気持ちになってやり直そう」

(あのとき親のせいで、友だちのせいで……って、なんだか人のせいにばかりしてきたような気がする。 いろんな言い訳が積み重なって今の自分がいる。 ほんとうに変われるものなら変わりたい。けど……)

少し不安でした。 でも、祈願室に一歩足を踏み入れると、その厳かな雰囲気に、暗い気持ちが消えていきました。

目の前に大きな仏がおられる気がしました。

(私、間違っていました。ごめんなさい)

一生懸命祈りました。心があたたかくなり、涙が止まらなくなりました。

終了後、講師の方が話をしてくれました。私は今までのことをすべて打ち明けました。

「──こんな私でも変われますか?」

「どんな人でも信仰を通して生まれ変わることができます。間違いをよく反省してください。 そして、もう一度やり直そうと決意し、努力してください。 仏はそういう苦しい経験をされたあなたに対して、きっと期待しておられますよ」

講師の言葉に勇気づけられ、私は「二度と同じ過ちをしない」と心に誓ったのです。 久しぶりに心がスッキリしていました。

※総本山・正心館しょうしんかん

栃木県宇都宮市にある幸福の科学の精舎しょうじゃ(研修・礼拝施設)

久しぶりの釣り

久しぶりの釣り

高校を卒業した私は、実家に帰って働くことに決めました。仏法真理も熱心に学ぶようになりました。 ちょうど父は単身赴任中で実家にはいませんでしたが、父とのこともなんとかしなければと、気にかかっていました。

精舎で『幸福の法』公案研修に参加したときのこと。 経典きょうてんをじっくり読み進めていくと、ある一節が目に留まりました。

「無限に愛を奪い取る傾向を持っている人は、いくら、まわりの人からほんとうに愛を注がれていても、それが分からないことが多く、足りないことのほうにばかり意識が行くのです」(大川隆法著『幸福の法』より)

「これって、私のことかもしれない……」

父の姿が心をよぎりました。私は父との関係をもう一度ちゃんと振り返ってみようと思いました。

(そういえば、小さい頃、花をプレゼントしてくれたことがあった。 私が花好きだったから、父なりに一生懸命、見繕ってくれてたんだろうな)

(一人暮らししていた時、突然、父が訪ねてきたこともあったな。 なぜか二人でお寿司を食べに行った。……あれは私のこと心配して見にきてくれたんだ)

(あっ、そうだ、釣り……。 父は釣りが好きだったから、よく私を一緒に連れて行ってくれた。 ……たしか私専用の釣り道具まで揃えてくれてた)

考えだすと、いろんなことがよみがえってきます。 私のことなんか、父はまったく関心がないと思っていたけれど、実は私のほうが父を見ようとしていなかったのではないかという気がしてきました。

(私は、父からもっと愛されたくて、反抗していたのかもしれない。 ほんとうは父に愛されていたのに……)

研修をきっかけに、父に対する見方が少しずつ変わっていきました。

たまに単身赴任先から実家に帰ってくる父。でも、二人の妹も思春期で、父と距離を取りたがっている様子。 家で一人でお酒を飲んでいる姿はどこか寂しげに見えました。

娘たちと話したいのに、話しかけられない父の不器用さが伝わってきたのです。私は自分から父に話しかけてみました。 すると父はうれしそうに、仕事の話から始まって自分の幼少時のことまで、いろんなことを話してくれました。

「美菜、釣りでも行こうか?」

ある日、父が誘ってくれました。

「いいよ。ほんと、久しぶりだよね」

誘いにのって、二人で海釣りに出かけました。

……なぜか私ばかりが釣れました。

「美菜は釣りがうまいな」

ぽつりと父が言いました。 まさか、釣りで褒められるとは思ってもみませんでした。 勉強では父に褒められたことがなかった私。はじめて父に認められたような気がして、照れくさくなりました。

父への報告

仏法真理を学んで気持ちが前向きになったせいか、その頃、交際相手ができました。 彼は大柄な体に似合わず、とてもやさしい人でした。私の過去を正直に打ち明けると、すべて受け止めてくれました。

(私も彼のために何かをしてあげたい)

そういう思いが自然にわきあがってきて、よく幸福の科学で言われている「与える愛」の喜びって、こんな気持ちなのかと、少しずつ実感できるようになっていました。

結婚を前提にお付き合いを続け、お互いの家も公認になりました。

ある日、私は自分が妊娠していることに気づきました。 彼も喜んでくれ、私たちは母と彼の両親にもすぐに伝えました。ただ、父の反応を考えると、少し不安になりました。

(父にはなんて言おう……)

父はまだ単身赴任中で、家にいませんでした。

妊娠が分かった日の夜、私は不思議な夢を見ました。

「“約束”しましたよね。お願いしますよ」

夢のなかで、めがねをかけた大人の男性から、そう言われました。

(約束って言っていたな。もしかして……あの人が自分の子どもになる魂なのかも)

そんな気がしました。 親子の縁はあの世で約束してくると教わっています。私が頼りなげに見えたのか、少し叱られたような気もしました。

不思議がって母に話したら、母も「そんな感じの男の人が、私の夢にも出てきたよ」と言うので、びっくりしました。

(お腹の子がわざわざ挨拶に来たんだから、私もちゃんと父に言わなくちゃ)

勇気を出して父に電話をかけました。

「お父さん、私、赤ちゃんできたの……」

「……」

無言の父。 驚いているのか、怒っているのか、電話の向こうの表情が分かりません。緊張しながら父の言葉を待ちました。

「──そうか、分かった。おめでとう」

予想外の穏やかな言葉。私のほうが驚いてしまいました。

それから数日後──。

「美菜さんを、僕にください」

彼が父の前で正式に結婚を申し出ました。父は下を向いて黙ってしまいました。泣いていたのです。

「どうか、娘をよろしくお願いします」

涙で声をつまらせる父。

私も涙がこぼれました。

(こんなに愛されていたんだ)

私でも人の役に立てる

私でも人の役に立てる

結婚後、主人も三帰誓願し、赤ちゃんも、夢で見た通り、男の子が生まれました。 私は家庭の幸福を実感していました。

ある日、ふと吉田由実さんのことを思い出しました。中学の時、いじめられている私に対して、手紙で励ましてくれた子です。

あの時言えなかった「ありがとう」の一言が言いたくて、彼女に手紙を書きました。すると、すぐに彼女から電話がかかってきたのです。

「ほんと久しぶりだよね。どうしたの?」

「吉田さんからもらった手紙、今も大事に取ってあるんだよ。すごくうれしかった。 でも、あの時は素直になれなくてごめんね。ほんとうにありがとう」

彼女も喜んでくれて、お互いの近況を話していると、驚いたことに、彼女も私とほとんど同じ時期に出産したと言います。 子育てで悩んでいる様子でした。

「もし、よかったら、幸福の科学の支部に行ってみない?」

「それって、誰でも参加できるの?」

「うん。子育てをしているお母さん方の集いもあって勉強になるよ。あの後、私もいろいろあったけど、ここで学んでから変わることができたんだ」

私は自分の経験を話しました。

私の話に興味を持った彼女は、支部の子育て中の母親の集いに参加するようになりました。やがて、彼女も幸福の科学に三帰誓願しました。

「幸福の科学を教えてくれてありがとう」

吉田さんに感謝されて胸が熱くなりました。

(私でも人の役に立てるんだ──)

お返しの人生を

私の10代は荒れたものでした。まるで出口の見えないトンネルのなかをくぐっているようで、苦しくてどうしようもない時期もありました。

でも、幸福の科学の信仰と母の励ましを通して、自分の間違いに気づき、やり直すことができたのです。その結果、父との葛藤を乗り越え、私自身も子を持つ母として幸せな家庭を築くことができました。

薄暗く見えた私の人生に光を与えてくれた仏に心から感謝しています。この気持ちを胸に、これからはお返しの人生を生きていきたいと思います。

(※プライバシー保護のため、文中の名前は全て仮名にしています。)

「ザ・伝道120号」より転載・編集