人はどこから生まれてくるの?

人はどこから生まれてくるの?

1956年、私は、古くから続く酒屋の娘として生まれました。いつも多くの人が出入りする、賑やかな家庭で、父は、子供たちを集めては、宗教や哲学の話をしてくれました。

「神様・仏様は、その人に背負えない荷物は与えないんだよ」

そんな父の影響から幼い私は、「人はどこから生まれてくるの?」と、疑問を持ちました。

そのわけが知りたくて、図書館に通っては、さまざまな本を読みました。けれど、満足する答えはどこにも見つかりません。

「いつか、私の問いに答えてくれるものに出会いたい!」

そんな気持ちを募らせていました。

父とは対照的に、母は気丈な人で、頭もよく、何事もテキパキこなします。

厳しくあれこれ指示されるたび、母の態度に嫌気がさし、つい強い口調で言い返してしまいます。

(母の引いたレールの上を歩くのは絶対、イヤ!私は、私の人生を歩みたい)

「一日も早くこの家を出よう!」と心に決めていました。

なぜ、私だけこんな目に?

高校を卒業した私は、家を出て京都で就職しました。染色の配色を決める仕事です。

就職して2年がたった頃、同じ職場で働いていた男性から、プロポーズされました。まだ私は20歳。彼は23歳と若く、結婚に対しても漠然としていて正直なところ、迷いました。

母に相談すると、案の定大反対され、実家からは見合いの話が次々と届きます。しかし、私は母への反抗心から結婚に踏み切りました。当時の私にとって、母に反抗することが人生の目標だったのです。

結婚後まもなく、長女・めぐみを出産。かわいいわが子の誕生に、幸せをかみしめていました。

生後3カ月が過ぎたころ、娘の様子がおかしいことに気づきました。

(3カ月を過ぎても、首が据わらない。この子大丈夫かな……?)

私は娘を病院につれていきました。検査の結果、「脳性麻痺」で「知的障害」があることがわかりました。ショックでした。

(この子の将来はどうなるの……?)

私は、不安と悲しみを抱えながら、病院で勧められた「ボイタ訓練法」(運動機能障害の治療法の一つ)に必死で取り組みました。幸い娘の障害は軽く、訓練の結果、自分の力で歩けるようになったのです。

ほっと、息をつく間もなく、2年後、長男・すすむが生まれました。

「次は、絶対健康な子供が生まれる!」

しかし、そんな私の願いもむなしく、息子も間もなく「脳性麻痺」と診断されたのです。さらに息子は、娘よりも重い障害があることがわかりました。

(なぜ、私だけこんな目に遭うの?いったい、どんな意味があるの?)

私は、目の前の現実を受けとめることができません。夢見ていた幸せな未来が、ガラガラと崩れていくようです。

「不幸のどん底って、こんな感じなんかな……」

それでも無邪気に笑いかけてくる子供たちの笑顔に支えられながら、息子の訓練に取り組みました。

しかし、懸命に訓練を重ねても、息子が歩けるようになることはありませんでした。

息子は、寝付きが悪く、夜通し泣きっぱなしです。昼間は外に出たがり、私は息子の乗った車いすを押して、街を歩き回りました。

「もう、疲れた……。一瞬でもいいから、こんな生活から解放されたい」

心身ともにくたくたで、(私ばかり、なんでこんなに苦しい思いをしないといけなんだろう……)と、不幸な気持ちでいっぱいでした。

頼りたくても、主人は仕事人間で、夜遅く帰ってきては、「メシ・風呂・寝る」の言葉だけ──。

若くして結婚した私たちです。主人は、子供の障害を受け入れることが苦しかったのでしょう。家庭のことは私に任せ、起業した会社を軌道に乗せるため、全力で仕事に打ち込んでいるようでした。

娘のほうは、なんとか普通学級に入れたものの、知的障害があるため成績はいつもビリ。学校ではずっといじめられていました。

幼いわが子たちの将来を思うと、私の胸は張り裂けそうに痛み、(いつか、この子たちにも光があたる日がきっと来るはず。その日まで、私が頑張らなくては……)と自分を励ましていました。

発病

発病

家事や子供の世話に追われ、心身ともにボロボロだった私は、自宅にこもりがちになり、孤独感と将来への不安から、よく部屋の隅で泣いていました。

見るに見かねた主人が休暇をとり、家族をハワイ旅行につれていってくれました。

つかのまの開放感を味わって、私たちは帰国しました。けれど、空港から自宅に向かうタクシーの中、突然私は、たとえようもないほどの不安に襲われたのです。あまりの気分の悪さに立ち上がることもできません。

「もう、あかん。生きていかれん。苦しくて息ができない……」

家に帰っても、あまりの空気の重さに押しつぶされそうで、じっとしていることができません。夜になると、暗闇に引きずり込まれそうで、恐怖から眠ることもできず、ふらふらと街をさまよっていました。

病院にかかり、医者に質問しても、なかなか病名を教えてくれません。私は、カルテに目を走らせました。

「統合失調症?」

そこに書き込まれた文字に、私は医者を問いただしました。

「私の病気って何ですか?治るんですか?」

しかし、医者は何も答えてくれません。

「お薬をお出しします。これを飲んで様子を見ましょう」

その日から、薬が手放せなくなりました。入退院を繰り返し、隔離病棟に入れられたこともありました。

当時の症状は、振り返っても記憶があいまいで、思い出すことができません。不思議な世界を漂いながら不安と恐怖で、ただただ苦しい──。

(生きていることがつらい。早く楽になりたい。死んだら、楽になるんかな?)

何度か大量の薬を飲んで、自殺を試みました。幸い、発見が早く未遂でしたが、生きる苦しさを思うと、死ぬことしか考えられませんでした。

主人の死

私の病気は完治することなく、よくなったり悪くなったりを繰り返しながら、10年が過ぎたある日のこと。

主人の会社から電話がありました。

「ご主人が倒れました。すぐ来てください!」

心臓発作でした。私が病院に駆けつけた時には、すでに意識はありませんでした。

手術の甲斐なく、意識が戻らないまま、2日後主人は亡くなりました。
恵は高校2年生。進はまだ14歳でした。

主人が亡くなった後、私に遺されたものは、主人の手術費用と、事業の借金3億円。さらに、二人の子供の教育費に治療費。そして自分の統合失調症──。

(いったい、これからどうすればいいの?)

押し寄せる現実を前に、呆然とするしかありません。娘や息子だけが、私の支えでした。

仏法真理との出会い

仏法真理との出会い

借金を返すため、自宅を売り、私たち家族はマンションに引っ越しました。

その頃、主人の取引先の銀行で営業担当をされていた遠藤さんという男性が、主人が亡くなったことを知り、訪ねて来られました。

「これ、よかったら読んでみてください」

そう言って差し出された本は、大川隆法先生の『太陽の法』と、『仏陀の証明』でした。もともと、宗教に興味を持っていた私は、さっそく『太陽の法』を一晩かけて読みました。

そこには、私がずっと探し求めていた、「宇宙の成り立ち」「あの世の世界について」「なぜ人は生まれてくるのか」といったことが、明確に説かれていたのです。

(私が知りたかったことがここにすべて書かれている。やっと、真実にめぐりあえた!)

私の胸は感動に震え、あとから、あとから涙があふれてきます。

しかし、(これこそが真実の教えだ!)と確信しても、主人のお墓を守らなくてはいけないという思いから、幸福の科学への改宗は無理だとあきらめていました。

娘に起きた奇跡

それからも遠藤さんは、我が家を訪ねては、幸福の科学の話をしてくださいました。

しばらくすると娘が、体調が悪いと言って、学校を早退するようになりました。

「まるで、頭にヘルメットをかぶったみたい。なんか苦しい」

数日後、とうとう寝込んでしまいました。食事ものどを通らない様子です。

私は娘をつれて、いくつもの病院に通いましたが、診察の結果、「まったく問題ない」とのこと。けれど、日ごとに娘は弱っていきます。1カ月ほどたったころ、私は、遠藤さんに相談することにしました。

「もしかしたら、ご主人が、家族のことが心配で、あの世に旅立てず、迷っておられるのかもしれないですね」と、親身になって受け止めてくれ、幸福の科学の支部で祈願を受けることを勧めてくれました。

(そういうこともあるのかな。これで恵が元気になるのなら……)と、祈願を受けさせていただきました。

祈願を終えて家に帰ると、ずっと寝込んでいた娘が台所で洗い物をしています。
「なんか急に体が楽になって、台所に洗い物があったから、洗っとこうと思って」と、元気に笑いかけてきました。

(こんな奇跡みたいなことがあるの?)

祈願の威力に驚いた私は、すぐに恵と進をつれて、支部に行き、共に三帰さんき誓願せいがん(※)させていただいたのです。

三帰さんき誓願せいがん
ぶっぽうそうの「三宝さんぽう」に帰依きえして、修行を続けることを誓うこと。

病気の原因は…

それから私は、できるだけ支部に行き、さまざまな行事に参加しました。

しかし、調子が悪くなると、大川先生の本もほとんど読めません。せめて御法話を拝聴しようと、ビデオをかけても、まるで真っ暗な中、ゴーゴーと強風が吹いている感じで、まったく耳に入ってきません。

大川先生の姿だけが、ボーッと浮かんで見えます。御法話のテープをかけると、今度は首を絞められているようで、苦しくて仕方がありません。

仏法真理を学ぶうちに、どうやら私の病気の原因が「悪霊の憑依ひょうい(※)」ではないかと確信したのです。

それから、なんとか憑依を外したいと、御法話の拝聴会や、精舎での研修・祈願に参加しました。しかし、私の病気はよくなったり悪くなったり。一進一退の状態でした。

症状が安定すると、薬を減らします。するとまた悪化して薬の量が増える。薬の影響で私の体は常に重く、だるく、(一生この病気を背負って生きていくのかな……)と、不安で仕方ありません。

夜になると何かに誘われるようにふらふらと街をさまよいます。ふと正気に戻り、怖くなってタクシーで帰宅することもしばしば。

行方不明になって川原で倒れていたところを警察に保護されたこともありました。街をさまよう間に靴が脱げたのか、足の裏は血だらけで、痛みの感覚もなくなっていました。

そんな風に、私の病状が悪化した時には、支部の方々が子供たちの面倒をみてくださいました。

教えを学ぶほどに、仏法真理への確信は強くなります。

(仏が、『偶然は一つもない』と言われているんだから、私の病気にも何か意味があるに違いない!)と、未来を信じて、悪霊と闘いながら自分自身を励ます毎日でした。

生活面では、夫から引き継いだマンションの経営がうまくいかず、借金の返済も滞っていました。

憑依ひょうい
悪霊などが取りくこと。霊が地上の人間に憑いて影響を及ぼしている状態のこと。

「心を変えなきゃ病気は治らないよ」

幸いマンションが売れ、主人の借金の返済が一段落した頃、私たちは実家に帰ることになりました。

実家近くの幸福の科学の支部に伺い、支部長に病気の話をすると、「会員さんでいい先生がいるよ」と、精神科医の方を紹介してくださいました。

でも、(どうせ、また今までと同じ……)

そんな不安や心配から、紹介された病院を訪ねる勇気がわいてきません。その時、背中を押してくれたのは、娘の恵でした。

「お母さん、幸福の科学の人やったら絶対間違いないから、行こう!」と、私を病院までつれて行ってくれました。

「心を変えなきゃ病気は治らないよ」

一通り診察を終えた先生は、「竹水さんの症状は、軽い軽い。治るよ!」

まったく予想もしない言葉に、私は驚きを隠せませんでした。

さらに、「薬は、お手伝いするだけ。心を変えなきゃ病気は治らないよ。これから毎日、感謝をこめて掃除をして、大川先生の書籍を音読しなさい」と、アドバイスをいただきました。

(心を変える?掃除?こんなに体がきついのに、なんでそんなことを?)

心の教えを学んではいたものの、10年以上も続いていた病苦とのギャップに、疑問や不満がわきあがってきます。

それでも、病気を治したい一心で掃除に励みました。

「お父さん、お母さんありがとう。恵、進ありがとう……」と、口先だけは、ありがとう、ありがとうと繰り返します。

でも、心の中は、(つらい、苦しい。それでも、こんなに頑張ってるのに。もっと私に感謝してよ!)と、次から次へと不平不満があふれてきます。

掃除と併せて、書籍の音読も始めました。

しかし、何が書いてあるのか、さっぱりわかりません。まるで何かに耳をふさがれているようです。それでも、一生懸命声を出して、書籍を音読し続けました。

生きていることさえつらい中では、いくら「人に愛を与えることが素晴らしい」と学んでいても、心にわきあがってくるのは、わかってほしい、愛してほしい、早く楽になりたいという思いばかりです。

(人を愛することや、愛を与えることが大事だって言うけど、私の心の中は、人から奪う気持ちばかりなんだ……)

心の汚れを取り除いたら…

苦しみの中で、毎日感謝の言葉を繰り返しながら、掃除を続けて数カ月──。

いつものように掃除を終えた私は、今まで味わったことのないさわやかさを感じました。

(なんだろう、この感じ。すっきりした)

いつもは、体がだるく、疲労感でいっぱい。掃除した後にさわやかな気持ちになったことなど、一度もありませんでした。

(毎日こんな感じだといいな。明日も頑張ろ!)と、前向きな気持ちになりました。

しばらくすると、今まで気づかなかった家の中の汚れが、気になってきました。

(あ、ここも汚い。ここも。きれいにしよ!)私は一生懸命、掃除に専念しました。

体の疲れも、人の評価も気になりません。ただただ、家をきれいにしたい──。掃除が終わると、とってもさわやかな気分です。

「この感じ。なんか、気分がいいな……」

その頃からです。書籍を音読しても、仏法真理が私の中にどんどん流れこんできます。

(なんて書いてあるか、わかる!)

私は掃除をしながら、心を見つめて、「心の掃除」をしていたのです。

その後は薬を飲まなくても調子が悪くなることはありませんでした。私は、精神科の先生に思い切って伝えました。

「私、薬やめたいんです!」
「竹水さん元気になったし、もう薬やめて大丈夫だよ!」

先生は、太鼓判を押してくれました。

ずっとやめられずにいた薬を手放すことができたのです。治らないと思っていた統合失調症がついに治ったのです。天にも昇るほどの喜びでした。

多くの愛に支えられて

多くの愛に支えられて

改めて振り返ってみると、愛を与えられてきた人生のさまざまなシーンが思い出されます。

どんな時も笑顔で励ましてくれた子供たち。私を産んでくれた両親。愛しい子供を与えてくれた主人。支部の法友ほうゆう(※)。

(なぜ、私は気づかなかったんだろう……。こんなにも多くの人に支えられ、愛されてきたんだ。不幸の連続の人生だと思ってたけど、自分のことばかり考えて人から愛を奪って生きている私に、本当の愛と幸せを教えてくれるために、この人生があったんだ──。主よ、ありがとうございます!)

心の底から感謝の思いがわきあがってきました。

※法友
法の友。同じく主の教えを学び、共に切磋琢磨し合っていく仲間のこと。

信仰さえあれば

二人の子供が障害を持って生まれ、主人には心臓病で先立たれ、私自身は統合失調症で、入退院を繰り返すという、本当につらく苦しい人生でした。

しかし、今、「人生は一冊の問題集である」「仏は、その人が背負いきれない問題は与えない」という仏言が心にしみこんできます。

人生の中で苦しい時、悲しい時はたくさんあります。けれど、その経験こそが魂の糧であるのだと思えます。だから、今の私に怖いものはありません。

主への信仰心と、仏法真理への確信が私を本当に強くしてくれました。

今、私は、仕事に通いながら、幸福の科学のボランティアをさせていただいています。娘も福祉コーディネーターとして、障害を持つ方の作品の制作や、販売に取り組んでいます。息子は施設で、同じく障害を持つ方と元気に過ごしています。

現在も私と同じように苦しんでいる方がいると思うと、じっとしていることができません。自分の体験を伝え、病気が回復するよう導いてさしあげたいと思います。

これからは、仏に与えていただいた命を多くの方のために役立てていきたいと思います。

最後に、私のもとを選び、あえて大きな問題集を抱えて生まれてきた子供たちへ。

あなたたちの笑顔が私の生きる支えでした。こうして元気になれたのも二人が支えてくれたからです。本当にありがとう。たくましく成長したあなたたちのこれからの人生が、幸せであるよう、母は祈っています。

(※プライバシー保護のため、文中の名前は全て仮名にしています。)

「ザ・伝道161号」より転載・編集