運命の出会い
(あの先輩、素敵だなぁ……)
念願の県立高校に入学し、合唱部に入った私は、そこで、坂本昭義さんと出会いました。
昭義さんは合唱部の部長。 声量豊かな美しいバスの持ち主で、高校生ながら、テレビ局の合唱団にも所属していて、いかにも育ちのよさそうな雰囲気をたたえていました。
そんな憧れの先輩と、私は、お付き合いするようになり、天にも昇る気持ちでした。
(高校に入って良かった!)
本当は、両親は私に、就職を望んでいたと思います。 実は、父が結核に罹ってから、わが家は生活保護を受けていました。私の下には妹と弟が3人もいましたし、経済的に苦しいなかで、許してもらった進学だったのです。
部活が終わると、彼は必ず、私を家まで送ってくれ、親も公認の仲でした。
昭義さんは高校を卒業すると、水道局に就職し、アマチュアの合唱団に所属。やがて私も社会人になると、昭義さんと同じ合唱団に入りました。
お付き合いが始まって5年。
両家の間では結婚の話が進み、彼が23歳、私が21歳のときに、結納が行われました。
けれども私は、誰にも言えない不安を抱えていたのです。
手を上げる彼
彼のもう一つの顔――。最初は他愛もない会話中でした。
「来週、友達と映画に行くの」と話したら、彼は急に不機嫌になり、「行くことねえよ!」と頭ごなしに否定したのです。
私はムッとして、「なんでダメなの?」と言い返したその瞬間、頰に痛みが……。
いきなり彼に殴られ、声も出ませんでした。 お付き合いを続けるうち、彼は私に手を上げるようになったのです。
彼に束縛されることにも、抵抗を感じていました。合唱団でも、私が他の男性と話をするだけで不機嫌になります。
もっと困ることは、私の職場で毎月開かれる親睦会の席に、彼が乗り込んできて、私を強引に連れて帰ることです。男性の隣に座っていたら大変です。
「お母さん、私、昭義さんと結婚したくない……」
思い余って母に打ち明けました。 でも、「裕福な農家の次男と結婚できるのだから」と、取り合ってくれません。結納金はすでに弟の学費に使われ、破談にするわけにはいかなかったのです。
働かない夫
結婚して2年後。
最初の子供を妊娠し、退職を間近に控えていたある日。夫の職場に電話すると……。
「坂本昭義さんは数カ月前に辞めましたよ。奥さん、知らないの?」
(そんな、まさか)
急いでアパートに戻ると、カーテンを閉めた暗い部屋で、夫がテレビを見ていました。
「何してんの、ここで!」
「会社は辞めた」
「毎日お弁当持って、どうしてたのよ!」
問い詰めても無駄でした。
その後も仕事の話をすればケンカになり、殴られるだけ。
(きっと子供が生まれたら、働いてくれる。男なんだから)
病身をおして家族のために働く父を見ていた私は、そう信じていました。
でも、そんな期待は、あっさり裏切られました。 3年おきに3人の子供が生まれても、夫は定職に就きません。私が子供を預けてパートをかけ持ちするしかなかったのです。
借金地獄の始まり
夫の裏切りは、それだけではありませんでした。
「おい。1週間以内に、この家を出るからな」
「ええ? なんで!」
サラ金でした。 お金の使い道を問い糺しても、夫は口をつぐんだまま。 この家は、私の退職金をつぎ込み、私が働きに働いてローンを完済したばかりです。借金の形に取られるなんて、納得できません。 結局、200万の借金は、夫の実家が肩代わりしてくれました。
しかしその後、さらに400万の借金が発覚。それは私の両親が、苦労して工面してくれました。けれども数年後、さらに800万の借金……。
昼夜を問わず、暴力団まがいの男たちが、「金を返せ!」と怒鳴り込んできます。夫は裏口から逃げ出し、対応するのはいつも私。
脅迫の電話も鳴りやまず、電話機に座布団を重ねて子供たちを寝かしつけました。
後で分かったことですが、裕福な家庭で苦労を知らずに育った夫は、コツコツと働くことができず、小豆相場に手を出して散財したり、貧乏生活が嫌で、高価な服や食べ物にお金をつぎ込んでいたのです。
(もう、離婚しよう)
ついに私は、3人の子供を連れて、実家に帰る決意を固めました。
「子供のために」
実家に戻って1カ月が経ったころ。夫が、謝りにやってきたのです。
「家族で暮らせるように、頑張りますから……」
玄関先に手をついて、泣きながら謝る夫に、父は、「帰れ!」と一喝して追い出しました。 すると、幼い長男が、夫の背中を追って駆け出したのです。
「お父さん、お父さん! ぼく一緒に帰りたいよぉ!」
飛びついてきた長男を、夫は、しっかりと抱きしめました。
2人の姿を黙って見ていた父は、私を諭すように言いました。
「幸子、どんなにバカな男でも、この子たちには父親だ。子供のために、辛抱して、帰ってやりなさい」
そうして私は、夫のもとに戻ることになったのです。
夫が「人格者」?
(本当に頑張るのかな……)
半信半疑で戻ったものの、やはり夫は定職に就きません。保険のセールスを転々としながら、合唱団の活動だけは続けていました。
しかし不思議なことに、外での夫は、「とてもいい人」で通っていました。
合唱団の仲間にも信頼されていましたし、保険の仕事では、女性たちの悩みを親身に聴いて助言をくれる、「人格者」的な存在だというのです。
あるとき私は、そんな女性の1人に喫茶店に呼び出され、こう言われました。
「あなた、あんなに素敵なご主人に愛されて、世界一の幸せ者よ。分かってるの?」
暴力と借金と束縛。それが素敵だと言うのでしょうか。
(バカバカしい。あんな夫、のしでも付けて、あんたにくれてやりたいわ)
よその人には善人顔の夫に、ますます腹が立ちました。
私が死ねば……
子供が中学生になったころ。
夫の、4回目の借金が発覚したのです。金額は、1200万円。私はとうとう自律神経を病み、精神科にかかりました。
(あの人が変わるには、私が死ぬしかないだろう)
そんな考えが頭を離れず、溜めていた薬を一気に飲み、雪の積もる山に入って行きました。遠ざかる意識のなかで、子供たちの顔が浮かびます。
気づいたときは、自宅の布団に寝かされていました。 結局、死に切れなかったのです。
(苦しくても、子供たちのために、生き抜くしかない)
私は、家族の生活と借金返済のために、夢中で働きました。
化粧品の営業、損保の代理店、ガスの検針、うどん屋、お惣菜屋など、5つの仕事をかけ持ち、早朝から夜遅くまで働き通し。土日は競馬場で馬券売りです。
もう20年以上、借金と、仕事と、時間に追われる日々……。
下の子が高校生のころには、サラ金からの借金は、14カ所、2000万以上に膨らんでいました。
(あのとき破談にしていたら、こんな人生じゃなかったのに)
何度後悔したことでしょう。
仕事の合間に、古本屋の百円棚で心理学や哲学の本を買って読み、それを再び数十円で売って、次の本を買い求めました。
転機
やがて子供たちが独立し、夫婦だけになると、夫の暴力はますますひどくなりました。
夫は毎晩、晩酌をするのですが、虫の居所が悪いと、ぐいぐいとお酒を飲んで、私を布団から引きずり出し、殴る蹴る……。 雪のなかを裸足で逃げたこともあります。ズックを履いて、車の鍵を握りしめて寝ました。
来る日も来る日も、夫への恐怖と憎しみで、まさに生き地獄。
しかし、転機はふいに、ひとすじの光のように訪れたのです。 ある日、パート先の病院で片付けをしていた私は、数冊の宗教書を見つけました。
「うわぁ。私、こういう本好きなんです」
院長の奥さんに言うと、「どうぞ読んで。すごくいい本よ」と、私に譲ってくれました。
その宗教書は、大川隆法先生の『太陽の法』でした。その晩、布団に入って読み始めると、止まらなくなりました。
(今までの本とは違う。私に必要なことが書いてある)
私は寝る間も惜しんで、夢中になって読みふけりました。
どの本も、人生の答えに満ちていました。一度では理解しきれなくて、同じ本を、何度も何度も、読み返しました。
(「心の三毒(※)」か。私の心にもあるね。でも、反省が必要なのは昭義さんだ。私は悪くないよ)
本の内容に感動しながらも、私は心のなかで、夫を責め続けていたのです。
- ※心の三毒
- 不幸の元になる煩悩の代表的なもの。貪とは貪りの心、瞋とは怒りの心、癡は愚かな心。
この宗教なら……
「あの本、すごく感動しました」。院長の奥さんにそう伝えると、幸福の科学の集いに誘ってくれました。
初めての集いで、私は、夫の暴力と借金づくしの数十年を打ち明けました。堰を切ったように、溜めていた思いが溢ふれ、涙が止まりませんでした。
「坂本さん、本当に大変な苦労をしてきたなぁ」
「そだね。だけど、どんなに苦しい人生でも、幸福の科学の教えで、必ず幸福になれるよ」
「三帰誓願(※)して、一緒に学んでいきましょうよ」
私は、皆さんの勧めに従おうと思いました。
(この宗教なら、本当に幸せになれるかもしれない……)
「坂本さん、家庭内暴力は、悪霊が影響してるんですよ。この『正心法語(※)』を読むと、仏の光で悪霊が逃げていくから、毎日読むといいですよ」
「はい、分かりました」
私はその日から、いただいた根本経典『仏説・正心法語(※)』を読み始めました。
- ※三帰誓願
- 仏・法・僧の「三宝」に帰依して、修行を続けることを誓うこと。
- ※『仏説・正心法語』
- 幸福の科学の根本経典。大切な7つの経文が収録されている。毎日読むことで、天上界と同通し、悪霊を遠ざけ、人生を切り拓く力がある。
自分の心を変える?
「また昨日、お父さんに殴られたんだ」。私は何かあるたびに、支部長に訴えました。
「幸子さんも大変だけど、まず旦那さんに感謝しねぇとね」
「だって支部長、借金されて殴られて感謝なんて……」
「そうやって責め続けるから、暴力が止まねんだ。 まず、旦那さんのいいところを素直に見るように、幸子さんの心を変えなくちゃ。 それが、心の修行なんだよ」
(あぁ、そうだ。先生のご本にも、そう書いてあった。だけど、どうしても恨みつらみが出てきて、感謝なんて……)
あるとき、支部の皆さんと、幸福の科学の那須精舎(※)に参拝に行く機会がありました。
山々に囲まれた那須精舎は、天国のように美しいところ。広い境内地を歩き、大ストゥーパのエル・カンターレ像(※)の前でお祈りをすると、夫への恨み心がスーッと消えていくような、不思議な感覚がありました。
(なんだろう。こんな幸せな感じは、初めてだなぁ)
毎日毎日、こんな平和な気持ちで生きられたら、どんなにいいだろうと思いました。
「人間は、魂修行のために、人生の課題を設定して生まれてくる」と教わりました。 私の課題は、夫との調和です。
夫を許し、感謝できるようになりたいと、心底、思いました。
- ※那須精舎
- 栃木県那須町にある幸福の科学の精舎(研修・礼拝施設)
- ※エル・カンターレ像
- 地球の至高神であり、大宇宙の根本仏である主エル・カンターレを象徴する御本尊。幸福の科学の支部や精舎に安置されている。
自分を変えたくて
支部に、那須精舎の館長さんが来られる日には、夫のことを相談して、ご指導を仰ぎました。
「坂本さん、旦那さんが出かけるときには、玄関まで出て、『行ってらっしゃい』と言いなさい。そしてドアを閉めてからでいいから、『お父さん、今日もお仕事、ご苦労様です』と、感謝するんです」
思い切って、やってみました。
「昭義さん、行ってらっしゃい」
最初は、そんなセリフを言うのが苦しくて。 でも、一度言えると、次はもっと楽に言えました。 「やらなきゃ何も変わらない」と自分に言い聞かせ、感謝の言葉を口にするように努力しました。
すると本当に、家の空気が穏やかになるのです。
けれども、私が少しでも、夫を低く見るような態度をとると、またすぐに殴られました。
「良くなったと思ったら、また、殴られました」
「じゃあ、もっと優しい言葉をかけてごらんなさい」
三歩進んで二歩下がる、というふうに、夫との調和は一足飛びにはいきません。
ただ、「私の不幸は夫のせいだ」と思い続けてきた私が、「自分の心を変えることで幸福になれる」という心の法則を信じ、実践し、少しずつ幸福感を感じられるようになったことは、何よりの奇跡です。
一方、夫は、私が支部や精舎に行くと、「早く帰ってこい!」と怒ります。
(昭義さんも、信仰に目覚めてくれればいいのに……)
突然の宣告
しかし2009年12月末。
夫は突然、心臓病で倒れました。
「心臓肥大です。奥さん、覚悟してください。これでは、年末までもつかどうか……」
(え?昭義さんが、死ぬ?)
突然の宣告に戸惑いながら、私は、夫を自宅に寝かせて、支部に向かいました。
支部には、ちょうど館長さんがいらして、病気を治す修法『エル・カンターレ ヒーリング(※)』と、悪霊撃退の修法『エル・カンターレ ファイト(※)』のやり方を教えてくれました。
「家に帰って、この修法を旦那さんにやってあげなさい」
自宅に戻ると、夫は、胸を押さえて息もできないほど……。
「昭義さん、とにかく、私と一緒にお祈りして!」
私は必死になって、仏に祈りました。 「正心法語」と、「主への祈り」「守護・指導霊への祈り」「病気平癒祈願」「悪霊撃退の祈り」をあげ、夫に向けて、教わった修法を行いました。
(あとは、天におまかせしよう――)
- ※『エル・カンターレ ヒーリング』
- 『祈願文①』に収録されている「病気平癒祈願」で行う修法。
- ※『エル・カンターレ ファイト』
- 『祈願文①』に収録されている「悪霊撃退の祈り」で行う修法。
奇跡をいただいて
次の朝。
「昭義さん、具合は?」
「あんなに苦しかったのに、幸子がお祈りしたら、楽になったんだよ。よく眠れた」
主人は別人のように、すっきりした様子です。昨日まで、体を横にできないほど苦しんでいたのが噓のようです。
「お父さん、良かったねぇ!奇跡をいただいたね!」
それ以来、夫は、「おい、お祈りしてくれ」と、私に頼むようになりました。 お祈りの間、夫はじっと手を合わせ、何かを感じている様子――。
そして数日後。 夫が突然、三帰誓願をしたいと言ったので驚きました。支部長さんが、喜んで迎かえてくれました。
「坂本昭義さん、あなたは、仏・法・僧の三宝に帰依しますか?」
「はい。私は、仏・法・僧の三宝に帰依することを誓います」
御本尊に信仰を誓う夫の姿は、まるで別人のよう。
「余命数日」と宣告されてから6日後。再び病院に行くと、担当医が首をかしげました。
「なんでこんな、急に良くなったんだか……」
私たちは、顔を見合わせて笑いました。
夢のような日々
それからの1年間は、夢のような日々でした。
「おーい、母ちゃん! お祈りするぞー!」
2人でのお祈りが日課になりました。 夫がいちばん好きなお経は、『仏説・正心法語』のなかの5番目の、『解脱の言葉 仏説・八正道』です。
冷静に 己れの 内を 見つめては
心の 実相 摑むなり
まず 煩悩の 炎を鎮め
執着の 思いを 除き はじむべし
(『仏説・八正道』より)
「こういう心で生きることが、大事なんだなぁ……」
経文を読み返す夫の姿に、私も、自分の心を反省しました。
(私は被害者だと思っていたけど、私の我の強さが、夫の怒りを引き出していたんだ)
たまに口ゲンカをして、お祈りをしないと、夫は心臓が苦しくなりました。 そこでお互いに反省して、お祈りをすると、心臓がスーッと楽になるのです。
信仰の力を、実感する日々。
そして毎月、那須精舎にお礼参りに行くことが、私たちの楽しみになりました。大ストゥーパのなかで目を閉じて、美しい瞑想曲に聴き入ります。
「俺はここが好きだー。ずっといたいくらいだ」
夫は音楽が大好きで、合唱の親善公演でヨーロッパに行ったときも、海外の有名な指揮者に絶賛されるほど、歌の才能に溢れた人でした。
穏やかな心で向き合うと、忘れていた夫の長所や、魂の輝きが、たくさん見えてきます。
あるとき、夫がぽつりと、こんな言葉を言ってくれました。
「ねぇ幸子。幸子のいいところは、笑顔なんだよ」
思いがけない言葉に、夫の優しさが、伝わってきました。
(今まで悪人と決めつけて、責め続けて……。昭義さん、ごめんなさい。 これからは今までの分も、仲良く暮らそうね)
天国でまた会いたい
けれども、ともに信仰の道を歩み始めて、ちょうど1年になる2011年1月。 夫は再び、心臓疾患で入院してしまったのです。
ICUに入っていた1週間、毎日、耳元で「正心法語」を読んであげると、夫は何度も「ありがとう、ありがとう」と言いました。 そして、「気をつけて帰れ」と、気遣ってくれました。
それが、最期の言葉でした。
夫のお葬式には、3つの合唱団が駆けつけ、それぞれにお別れの曲を歌って、別れを惜しんでくださいました。 大好きな合唱で見送ってくれた皆さんに、夫の魂も、心から感謝していたと思います。
少しずつ遺品の整理をしていると、夫の、18歳のときの日記が出てきました。開いてみると、どのページにも、私の名前が書いてあります。
――町田(旧姓)が、今日も健やかであるように願う。
ページを埋める、几帳面な文字に、当時の思い出が鮮やかに甦って、涙がこぼれました。
(昭義さんは、私のこと、こんなに大事に思っていてくれたんだ。 ずっと、すれ違ってばかりだったけど……)
2人の40年間は、お互いを責め続けた、苦しい日々でした。 けれども最後の1年は、過去の不幸が全部帳消しになるほど仲良く暮らし、限りない幸福感に満たされていました。
今世、信仰の喜びを魂に刻めたことが、私たちの人生の、一番の宝物だと思います。
人間の生命は、魂を磨くために、永遠の転生輪廻を繰り返しています。 来世、2人が生まれ変わって出会うときは、もっと素敵な関係になっていますように……。
そう願いつつ、これからの日々を、信仰とともに、大切に過ごしていきたいと思います。
昭義さん、天国で会える日を、楽しみにしています。
(※文中に出てくる名前は、全て仮名です。)
「ザ・伝道190号」より転載・編集