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どのような環境にあっても一輪の花を咲かせる

超一流会社にいて、そこで花を咲かせる人もいますが、中級の会社、あるいは弱小の会社のなかで、努力して見事な花を咲かせる人もいます。
学校についても同じです。よい学校もあれば、"底辺校"と言われる学校もありますが、その底辺校と言われる学校のなかで、立派に学び、育ち、花を咲かせる人たちもいるのです。
家庭のなかでも不幸はあります。家族に病人が出る場合もあれば、家族の誰かが事故に遭って障害を負う場合もあります。兄弟の誰かが病気や事故で夭折する(若くして死ぬ)場合もあります。両親のどちらかが亡くなる場合もあれば、両方とも亡くなる場合もあります。ほかにも、借金を背負って一家で夜逃げをするなど、不幸なことはたくさんあるでしょう。
ただ、「どのような環境のなかにあっても、泥沼のなかから咲く蓮の花のように、一輪の花を咲かそう。清らかに生きていこう。すがすがしく生きていこう」と決意して生きていけば、それなりの花を咲かせることは可能です。その花の大きさは、さまざまでしょうが、小さい花でもかまわないのです。
どうか、「泥沼のなかから蓮華の花は咲くのだ」ということを理解していただきたいのです。
もし私の言っていることが分からなければ、蓮の花の咲いている池を、一度、ご覧になるとよいでしょう。汚い泥のなかから、この世のものとは思えないような花が、スーッと伸びて咲いています。
仏陀が目指した悟りの道も、そういうものであったのです。
「この世のなかは、すべてを浄化して、きれいにすることはできない。しかし、そのなかにおいても、泥のなかから蓮の花が咲くように、あなたがたも一輪の花を咲かせなさい。それが、あなたがたの環境のなかにおける悟りなのだ。
その環境自体を変えることはできない。あなたがたが味わった、過去の不幸それ自体を、全部、帳消しにすることはできない。
しかし、不幸な環境に生まれたとしても、同じような環境のなかにある人が、全員、不幸のどん底まで行かなければならないというわけではないであろう。
その環境のなかで、あなたがたは、心を磨き、自分の道を求めて、一輪の花を咲かせることはできるのではないか。それは、どの人にも可能なはずである」
仏陀は、そういうことを説いていたわけです。
その意味での悟りはありえます。「自分の境遇、境涯、環境のなかにおいて、一輪の花を咲かせる」という悟りはありうるのです。
その意味では、「すべての人に仏性があり、仏陀になる可能性がある」という考えは正しいのです。誰もが、「世界を救う法を説ける」という意味での仏陀になれるわけではありませんが、自分の環境のなかで、泥沼のなかで、一輪の花を咲かせることは可能です。そういう道を忘れてはいけません。
そして、あまり欲を持ってはいけません。この世においての大欲を持ちすぎてはいけないのです。足ることを知って、「どのような環境のなかにおいても、逆境のなかにおいても、自分なりの一輪の花を咲かせる」というところに幸福の道を見いだすことです。
客観的な条件が全部揃えば幸福かというと、そんなことはないのです。人もうらやむ環境に生まれ、すべての条件を満たしているような人のなかにも、心は虚しく暗い人はたくさんいます。
一方、ささやかな環境のなかにあっても、光り輝いている人はたくさんいます。仏教的には、その輝きを目指し、それを得ることが大事なのです。
すなわち、「周りの環境、あるいは、自分自身のいままでの生き方や、いまの心を見れば、それは泥沼かもしれない。しかし、あなたがたは、そこから、ささやかでもよいから、悟りの花を開かせなさい」ということです。
どうか、この世的な結果主義者に終わらないように、「この世的なことがよければ、すべてよい」という考えにならないようにしてください。
「どのような環境下においても、自分なりの一輪の花を咲かせる」ということが、「人生は一冊の問題集である」という言葉に対する答えでもあるのです。

大川隆法著『信仰のすすめ』より