暗い海に向かって
2002年1月21日の夕暮れ。
私は、熱海の海岸に座り込み、缶ビールを片手に、一人、沈みゆく太陽を眺めていました。
夜になり、周囲に人気がなくなると、暗い海に向かってゆっくりと歩みを進めていきました。
(もう、いいや。少し疲れた……)
冬の海の冷たさが身体かを刺すように感じられましたが、歩みは止まらず、いつしか海水は膝の高さに達していました。
1966年、私は東京都に生まれました。 親分気質で誰からも慕われる大工の父と専業主婦の母、そして弟と妹の仲のいい五人家族。 工業高校卒業後は鉄道用計器メーカーに就職、家族も喜んでくれました。 しかし、勤続11年目の夏から、私の転落が始まりました。
「君なら独身だし、まだ若いし、どこに行っても大丈夫だから……」
95年8月、会社の上司が、突然そう切り出してきました。
私は、即座にはその意味を理解できず、何度か真意を問いただすと、上司は「リストラの対象になったんだよ」と告げました。
原因は、仕事への姿勢にあったようでした。 私は自分の仕事を急いで終わらせては、幼少期から入れあげていた地域のお祭りの運営のため、会社をたびたび休んでいました。
(自分の仕事はやっている。だから、文句はないはずだ)
しかし、そんな姿勢は、バブル崩壊後に業績が低迷していた会社からは、苦々しく思われていたようでした。
また、就職後に覚えたパチンコにのめり込んで借金を重ね、月末になると金策で頭が一杯になっていたことも、仕事への集中力を削いでいたのかもしれません。 いずれにせよ、ショックのあまり、家族にはしばらく切り出すことができませんでした。
日々すり減る自分の「価値」
リストラの件はやがて家族の知るところとなり、私も次の職を探し始めました。
とはいえ不況の折、仕事は見つかりません。見かねた父が自分の勤める工務店に口を利いてくれ、私はそこで働くことになりました。
しかし約3年後の99年、作業中の事故でヘルニアを患らい、その職場からも離れることに。 再び職安通いの日々が始まり、2001年、中学校時代の先輩が経営する警備会社に転がり込みました。
しかし、仕事は少なく、ほどなくして給料が遅配気味になりました。 ときおり配置される工事現場の警備では、歩行者や工事関係者から罵声を浴びせかけられたり、タバコや空き缶を投げつけられたりします。
(前の会社なら、ここまでひどい経験をしなくて済んだのに……)
やすりにかけられているかのように、自分の“価値”がすり減っていく毎日。 みじめな気持ちを紛らわすかのように、パチンコ通いの頻度が増え、借金も500万円近くまで膨らんでいました。
その年の暮れ、人手不足だった同業他社への転職話が来たことと、給料の支払いが完全に止まってアパートから追い出され、実家に戻ったことを契機に、逃げるようにその会社を辞めました。
「このまま行けば、楽になれる」
戻った実家で目にしたのは、共にガンを患って入退院を繰り返していて衰弱し、経済的にも困窮する両親の姿でした。
(俺がいなくなれば、せめて親の家計だけでも楽になるのかな……)
次第に私は、そんな考えにとらわれるようになりました。
そして、02年1月21日。私は、誰にも告げずに家を抜け出してフラリと電車に乗り込み、熱海の海に歩みを進めたのです。
(このまま行けば、楽になれる……)
しかし、不意に、生まれたばかりの甥や姪の顔が浮かんだことで我に返り、とたんに震えが来た身体をさすりながら海岸まで戻りました。
岸に上がると、目の前に旅館の公用車が止まっていました。鍵は付いたままで、施錠もされていません。
(温まるために、ちょっと失敬しよう)
ドアを開けてエンジンをかけてエアコンをつけ、あてどなく東に向かって走り出しました。 しかし、ガソリンはすぐに底を突き、立ち往生。車を捨てて歩き、東京のある駅前に着いたときでした。
海水に浸かった状態から数日を経て異臭を放ち、服装もボロボロだった私に、憐みの視線が注がれます。
(お願いだから、そんな目で見ないでくれ……。もう無理だ!)
私は、近くにある交番に飛び込んで自首。窃盗の罪で逮捕され、留置所に入ることになったのです。
“どん底”で芽生えた決意
(なぜ俺は、石ころみたいな扱いを受けなきゃいけなくなった? 一体どこで道を間違えた? そもそも、あのリストラさえなければ……)
暗く冷たい留置所で、私は自問しました。当時の私にとって、世間とはあまりに冷たく無慈悲なもののように感じられていました。
(どうせ仕事もクビに決まってる。親からも勘当されることだろう)
捨て鉢な気持ちを抱えながら、02年3月の昼下がり、私は刑期を終え、「塀の外」に出てきました。 すると──。
春の日差しの下、病気で弱っているはずの両親が立っていたのです。
「ま、レンタカー代だ」
父が口にしたのは、たった一言のみ。
母も、「お前の会社の社長さん、『行くあてがなければ、続けて働いてくれればありがたいです』っておっしゃってるよ」とだけ言いました。
(父も母も、言いたいことはたくさんあるだろうに……。 社長にしたって、勝手に仕事に穴を開けたので、普通なら解雇が当然なのに……。 みんな、こんな俺を待っててくれた!)
私は、思わずその場で崩れ落ちました。
(絶対、変わる!人生、やり直してみせる!)
熱いものが、腹の奥底から込み上げてくるのを感じていました。
生涯の師を探し求めて
出所以降、私は、図書館に通って本を読みあさり、生涯を通して教えを請うべき人、“貴人”を探し求めていきました。
自己啓発、お金の知識、いろいろ手を伸ばしましたが、どこか軽薄な感じや利己的な感じがして、なかなかしっくりきません。
そんな05年、職場の同僚から幸福の科学の行事に誘われました。
(自分を変えたいとは思っているし、入る、入らないは別にして、一度話を聞いてみよう)
7月3日、地元にある複合商業施設で開催された大川隆法総裁の法話「自灯明の時代を生きよ」の上映会に参加したのです。
終了後、信者の人たちとお茶をしていたときでした。
「あなたの人生のヒントになるかもしれない映画があるので、私たちの支部まで来られませんか?」
興味をそそられ、向かった地元の支部で観たのは、映画「太陽の法」(※)でした。2時間後、私は号泣していました。
「神は、あの太陽のように、決して休むことなく愛を与え続け、何も見返りを求めることがない。 神の子である人間もまた、あの太陽のように愛を与え続けて生きていくことだ」
映画のなかで語られていた、「見返りを求めずに与え続ける、無償の愛」という考え。それは「真人間」に変わろうともがいていた自分にとっての、人生の道標のように感じられました。
(この涙の本当の理由を知りたい。必ず会えると信じてきた“貴人”の教え。もしかしたら、それがここにあるのかもしれない……)
それから約1カ月後、私は三帰誓願(※)しました。
- ※映画「太陽の法」
- 大川隆法総裁の書籍『太陽の法』を原作とする、幸福の科学のアニメーション映画。2000年に全国で公開された。
- ※三帰誓願
- 仏・法・僧の「三宝」に帰依して、修行を続けることを誓うこと。
過去の自分との対決
(でも、知り合いに「自分が幸福の科学の信者だ」と知られるのも嫌だし……。 できる範囲で、「愛」を与えていけばいいだろう)
そう思った私は、誰に会わずともできる布教誌配布のボランティアや、大川総裁の書籍を刑務所に郵送で献本する活動を始めました。
しかし、長年染み付いた自分の悪癖は、一朝一夕に断つことができませんでした。
07年に父が亡くなって精神的な後ろ盾がなくなると、「自分を守ってくれる人がもういない」と、パチンコ店に駆け込む日が増え、借金額も徐々に大きくなってきました。
(なぜ俺は、まっとうに生きられないんだろう。このままでは、また元に戻ってしまう……)
自分を過去に引き戻す、重力のような力を感じていました。
「どうしても弱い心が治りません。でも、本気で変わりたいんです!」
恥をしのんで、私は支部長に打ち明けました。
「今度、総本山・未来館(※)の講師が、支部に講話に来るので、そのとき相談してみましょう」 その言葉に従い、精舎の講師に、悩みをぶつけてみました。
「今までおつらかったでしょうね。でも、幸福の科学の教えには、人生の逆境に立ち向かう心構えが説かれたものがあるんですよ」
そう言って勧められたのが、大川総裁の書籍『不動心』でした。
(最後のチャンスかもしれない)と感じた私は、時間を見つけては、その本を何度も読み返えしました。 30回目を読み終えたときだったでしょうか。ある一節が、急に、自分の心に迫ってきました。
「『立ち向かう人の心は鏡なり』という言葉があるように、自分の心が変わっていけば、相手も自然に変わっていくのです」
(自分の心に、すべての原因があるということか? とすれば、自分のなかにある「原因」とは、何だったんだろう)
その答えを求め、私は、パチンコ店のある場所をできるだけ迂回するなどして賭けごとを控え、お金を貯めて東京正心館(※)の研修への参加を重ねていきました。
- ※総本山・未来館
- 栃木県宇都宮市にある幸福の科学の精舎(研修・礼拝施設)
- ※東京正心館
- 東京都港区にある幸福の科学の精舎(研修・礼拝施設)
思い浮かんだ「愛」と「恩」
転機は、12年8月に受講した「八正道」研修で訪れました。 一泊二日の日程で、自分の歩みを静かに振り返っていくうちに、不意に、いくつかの場面が自分の胸に浮かんできました。
それは、高校卒業後に勤めた鉄道関係の会社での記憶の断片でした。
「君は字がキレイだから、今回はリストラの対象から外そう。 これからは、心を入れ替えてやってほしい。期待してるよ」
思い返せば、リストラの1年ほど前にも、私は人員整理の候補になっていたところを、社長から直々に救われていました。
「鈴木はもっと、人の話を聞く耳を持たないと、伸びんぞ」
会社の同僚たちも、仕事より地域のお祭りの運営を優先する私を心配し、部署の垣根を越えて、忠告してくれていました。
「鈴木君がクビになるのは、おかしい!」
私に解雇を通知した上司も、裏では抗議を続けてくれていました。
考えてみれば、リストラを回避するのに、字のきれいさなど何の理由にもなりません。それでも社長は、自分にチャンスをくれました。
同僚たちも、自分自身がリストラ対象者になるかもしれない不安のなか、私にロープを投げてくれていました。
また、上司も、“上”に立てつけば、自らの身にも危険が及ぶ可能性があったにも関わらず、それでも私を守ってくれようとしていました。
そんな人たちの恩を、私はこれまで忘れ、逆に恨んですらいたのです。
(これだけの人から私はこれまで救いの手を差し伸べられていて、それを自分で振りほどいたのに……。本当に俺は、バカ野郎だ……!)
「恩知らず」の一語が胸に迫り、両手が自然と胸の前で合わさります。 頬を伝った涙は、止まることがありませんでした。
(主エル・カンターレ(※)、恩知らずだった私に、「愛」を思い出させてくれて、本当にありがとうございました! そして、本当に申し訳ありませんでした……)
研修の帰り道の途中で見上げた青空は、ひどく鮮やかに見えました。
- ※エル・カンターレ
- 幸福の科学の信仰の対象であり、イエスが父と呼び、ムハンマドがアッラーと呼んだ御存在。
「やり直せない人生など、絶対にない!」
それ以降、人生のやり直しを期した、私の毎日がスタートしました。
「私は、かつて、自分で死のうとした経験がありますので、お気持ちは分かるつもりです。もし、あなたが苦しく、つらい思いを抱えているなら、ぜひ、私にお気持ちを聞かせてください」
かつては、「宗教に入ったことがばれてしまう」と避けていた「自殺を減らそうキャンペーン」。今では、その活動に努めて参加し、地元の街頭で啓発活動を続けています。 その途中、ふとした折に道行く人からいただく「ありがとう」の一言が、私の背中を後押ししてくれます。
大川総裁の書籍を刑務所に郵送する際に添える、自分の体験を明かした手紙を書く際にも、自然と熱がこもります。
(世間、そして神仏からいただいたものを、少しずつでも世の中に恩返しする。 これが、自分の生きる道だ!)
こういった決意が、少々のことで動じない、自分の“重し”になっていったのでしょうか。 かつてはストレスを感じるとすぐにパチンコに走っていましたが、今は一切やらず、膨らんだ借金もなくなりました。
最近では職場でも、「警備員という今の自分の立場で、何が改善できるか」を考えられる強さが生まれ、「警備員として誇りを持てる仕事をしよう」という気概が芽生えています。 気づけば、今年で勤続15年目。 これまでの職歴のなかで、最も長く勤めていることになります。
リストラ、借金、自殺未遂……。 かつて私は、ある意味でのどん底を経験しました。 ですがそんな私でも、今は、自分を信じ、他人に感謝し、神仏を信じて、心穏やかに生きています。
自分の半生からお伝えできるものがあるとすれば、「やり直せない人生など、絶対にない」ということです。
生きていれば、つらいこと、苦しいこと、みじめになるようなことは、たくさんあります。 その一方で、私たちに愛を与えてくれる人、心配してくれる人、寄り添ってくれる人も、必ずいるはずです。
過去の苦しみを握りしめて生きるか。 それとも、人さまからの恩を見つけ、感謝を捧げられるか。 どちらを選ぶかで、人生の幸・不幸も変わってくるのでしょう。 それを教えてくれたのは、幸福の科学、主エル・カンターレでした。
(大川隆法総裁先生こそ、自分にとっての“貴人”だったんだ)
信者になってから10年経った今、改めてそう実感します。
人生が80年あるとすれば、私には、まだ半分近い時間が残されていることになります。主によって立ち直らせてもらった人生。 人にはない体験をしたからこそ、分かる気持ちもあると思います。一人でも多くの方の心に刺さるトゲや傷を癒してさしあげたい──。 今後はそんな生涯を歩み、主への恩返しとさせていただければと思っています。
(※プライバシー保護のため、文中の名前は全て仮名にしています。)
「ザ・伝道209号」より転載・編集